|
すでに社会人である長女が、小学5年生だった15年前。中学受験のために塾に通わせはじめたものの、本人はさっぱり自覚がなく(今思えば自覚なんかなくてあたりまえだが)、家で鉛筆を握ることすらないまま日を過ごしていることに私はいらだった。ある日、ついにキレて私は怒鳴った。
「そんなに勉強しなかったら、将来、落ちこぼれちゃうよっ!」
私の言葉をしばらく考えていた長女はおもむろに訊いた。
「何から落ちこぼれるの?」
う、と言葉につまりながらも、そこは空威張りしてこういった。
「将来、あなたがやりたいと思う仕事につけなくなるかもしれないし、そしたらまともな生活をしようと思ってもできなくなるかもしれないのっ。あるレベルの生活から落ちこぼれるかもしれないのよ」
すると長女は私の薄っぺらでエゴイスティックな思惑を見透かしたように、おもむろにこういったのだ。
「ママ、私はママが思っているレベルとは別のレベルで生きていくつもりだから、心配しないで。別に金持ちや有名人になるつもりないし。ふつうに仕事して、ふつうに生活できればそれでいいのよ」
そのあと私がなんと返したのかは記憶にない。「そんな小市民的なことを!」とか怒鳴り返したのかも。だが、いま振り返ると、なぜ子どもが将来を不安がるようなことばかりいっていたのか、と反省する。
団塊の世代である夫は「偏差値」という言葉に不安をかきたてられるそうだ。そのひとつ下の世代の私は、「落ちこぼれる」ことに恐怖がある。そして「落ちこぼれ」には平然としていた長女は、いま「格差」という言葉に敏感に反応する。世代はちがっても、集団のなかで自分がどの位置にいるかを、人は非常に気にするものらしい。一応「身分」「階層」があきらかに固定されていないとされる日本社会では、目には見えない、実態がよくつかめない「差」に人はつねに神経をとがらせ、自分が下のほうにいかないかと不安をかきたてられるのではないか。
|