
32歳の長谷川カヤノは、生まれてはじめての恋愛中。でも彼女は、この恋愛が今ひとつ盛り上がりに欠けるような気がしてならない。週末に会ってなんとなく2人で一緒に過ごしているのだけれど、イベント的なデートにはならない。ただ2人で一緒にいると落ち着くし、ほっとする。でも恋愛ってこんなジミでいいのだろうか、と悩んで友だちに「ねえ、今までで一番印象に残っているデートってどんなの?」と聞くところから、このオムニバス短編小説は始まる。
今までで一番印象に残っているデートは?
そう聞かれた人たちが思い出すのは、カヤノを安心させるようなほんのささいな出来事ばかりだ。近所のしけた公園で2人でパンを食べたことという20代の女性。ドーナツ屋の高校生に恋をして、こっそりあとをつけたときの胸の高鳴りが忘れられないという30代の専業主婦。居酒屋で飲んだとき、お酌をしたり、焼き鳥にレモンをしぼったりしたら、不器用で無口な彼(今の夫)が「なんだか、嘘みたいだ」と喜んだことだったと思い出す50代の主婦。みんな平凡だ。日常のほんのヒトコマでしかない。高級レストランのディナーもなければ、花束も指輪もない。でも、記憶に刻まれているのは、そんなジミなことなのだ。
一読し、最後のページを閉じてふと思う。
デート……長らくしていないなあ。私にとって、今までで一番印象に残っているデートは何だろう? 今の夫からプロポーズされたデートはもちろん覚えている。車で富士山に行ったときだった……あれ? ちがうかも。海に行ったんだったっけ? ……なんだ、ウロ覚えなんじゃないか。
それとは別に(別に、でいいのか?)、ものすごくはっきり覚えているデートがある。大学時代にある研究サークルで知り合って、すごく好きだった人がいた。でもサークルの活動が終わってしまったために会うチャンスがなくなり、悶々と悩んだ挙句、ある日思い切ってその人が下宿していたアパートに電話をかけた。電話をかける勇気を奮い起こすまでに1ヵ月近くかかった。取り次いでもらうまでの数分間に緊張のあまり耳が痛くなったこと。いきなりの電話に驚いた様子だったものの、しばらく話して「それじゃ会おうよ」と言ってくれたときに、安堵とうれしさで思わず涙がにじんだこと。約束の日までの一週間は、何をやっていても夢のなかのようで現実感がなかったこと。当日は4月というのに太陽がまぶしい初夏の陽気で、車で迎えに来た彼がドアを開けてくれたとき、グレーの半袖のTシャツ一枚だったので驚いたこと。
ところがはっきり記憶に残っているのはそこまでだ。どこに行ったのか? 何を食べたのか? 何を話したのか? 記憶からすっぽり抜け落ちてしまっている。その後しばらくつきあい、最後はどろどろで別れたのだけれど、最初のデートまでこぎつけるあのドキドキのおかげで、今でもとても……ではないが、いい思い出にはなっている。
あなたのなかでもないだろうか? ジミかもしれないけれど、忘れられない恋のワンシーン。思い出したときに、ふっと心があたたかくなるような出来事。それを思い出すのにぴったりの一冊だ。
『ちいさな幸福』
角田 光代著 講談社文庫
¥420(税込)










