娘が幼い頃、いわむらかずお氏の絵本「14ひき」シリーズ(森のねずみの一家、14匹が、豊かな自然のなかで助け合って暮らす光景を描いた絵本)が親子とも愛読書だった。年長組に入る前の3月のことだ。前の晩に、ねずみの一家が野原にお弁当を持って出かける「14ひきのぴくにっく」を読んだ娘が、保育園に行く途中、あたたかな春の日差しが降り注ぐなかでいきなり走り出した。「うっほほーい! 春だよ、春だ!」と絵本の最後にあるセリフを叫びながら、ねずみたちと同じポーズで飛び跳ねた娘は、くるりと私のほうを振り向いて「ママ、これ、春だね!」と顔を輝かしたのだ。
「プルーストとイカ」で、人が文字を読むときの脳の働きを説明したくだりを読みながら、私が思い出したのはそのときの娘のうれしそうな顔だ。春の陽光や風にふれて身体のなかから湧き出てくるようなエネルギーが、絵本の「春(はる)」という単語と結びつき、抽象的な言葉を彼女の脳が理解した。その喜びの表情だった。
文字という記号を目で見て、頭のなかで音に変えて読むこと。文字で書かれた単語やテクストを理解してイメージすること。それは人間がたかが2000年前に獲得したばかりの新しい、だが人の在り方まで変えた画期的な能力だ。読字能力のおかげで、人間は記憶の蓄積を暗記だけに頼る必要がなくなって、膨大な情報を時間と空間を超えて伝えられるようになった。そればかりではない。文字を介することで、人間は他人の体験や感情も想像できるようになり、思考の幅が広がって深みも増し、感情や状況を分析して表現し、過去を記録し、未来を予測する能力を獲得した。脳の構造は変わっていないのに、文字を使うことにより、脳内では神経回路があらたに張り巡らされて、それまであまり働いていなかった部位が活発に働くようになり、脳の働くメカニズムさえも変わったのだそうだ。
著者はディスレクシア=読字障害といって、視覚、聴覚や読字教育に障害がないのに、文字がどうしても読めない、もしくはすらすらと読み下せない障害を持っている人たちの研究と教育にたずさわっている。そういう障害を持つ人の調査はまだないが、実は隠れ障害者が非常に大勢いるのではないか、と言われている。著者の息子(現在はデザイナーとして活躍)もディスレクシアで、学校の教育についていけずにたいへん苦労したそうだ。
ところが息子に限らずディスレクシアには、芸術家、研究者などで非常にクリエイティブな才能を発揮している人が多い。歴史をひもといても、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エジソン、アインシュタインなども文字を読むのに苦労した。
近年、ディスレクシアの原因をつきとめるために、人が文字を読むときの脳の働きを調べる研究が進み、数々の興味深い事実があきらかになった。たとえば英語、中国語、日本語では、文字を読んでいるときに使う脳の部位があきらかにちがう、という。アルファベットと漢字ではまず文字をどう音にして理解するかという過程がちがうし、漢字かなまじり文と漢字だけの文章を読むときもちがうのだ。
本書が繰り返し言うように、人類が2000年かけて発達させてきた脳の読字能力を、幼い子どもたちはたった200日で「必要な知覚システム、認知システム、言語システム、運動システムすべてを連結する方法を学習しなくてはなら」ず、それも低年齢のうちから早く読めとせかされるようになっている。しかも近年はインターネットの発達により、要求されるリテラシー(言語運用能力)は「もっと速く、もっと多様に、もっとたくさん」と大きく変化した。それが人間の脳をどのように変えていくのか? 「本を読まなくなった」とされる現代人の思考、判断、予測能力はどう変化するのか? それに対する懸念や展望も示唆している。

脳のシステムの話はさておき、5歳までに子どもに本の読み聞かせをすることが、単に親子の感情的な結びつきを強くするだけでなく、その後の脳の発育に決定的な影響を与えることが理解できて、子どもを持つ人たちには非常に意義深い本になるはずだ。とにかくおもしろい! 本好きにも本嫌いにも、刺激となることまちがいない!
(text / motoko jitsukawa)
「プルーストとイカ─読書は脳をどのように変えるのか?」
メアリアン・ウルフ著、小松淳子訳
インターシフト
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