全国の書店員の投票によって選ばれる2010年本屋大賞に輝いた「天地明察」は、読者を幸せな気持ちにする力を持つ、というまれな本だ。舞台は、戦国時代が終わり、民衆が太平の世の暮らしに慣れてきた江戸時代。中世以降800年間日本で使用されてきた宣明暦にずれが生じていることに気づき、改暦という大事業に挑んだ渋川春海という実在の人物に材をとった小説である。
春海の職業は、大名に呼ばれると囲碁の相手をする囲碁打ちである。囲碁は武士の教養(もしくはたしなみ)のひとつとされ、囲碁のプロと実際に碁を打ちながら棋譜を教わり、腕を磨くことが日々実践されていた。若い春海は代々囲碁を教える家に生まれ、江戸城にあがって大名たちと碁を打つことを仕事としていた。だが、過去の棋譜を研究するだけで新しい手を考えることはせず、しかも真剣勝負ではなくただ偉い人の相手をするために碁を打つことに若い春海は退屈していた。それでもプロであるから、「お勤め」はないがしろにしない。
一方で春海が熱中していたのが算術である。問題を解くのに夢中になると、人が行き来する道であろうが、他人の家の前であろうが、算木を広げて夢中になってしまう。現代に生きていれば、オタクとか呼ばれたであろう春海だが、オタクと大きく異なるのは、世のため、人のために自分の能力を役立てたいと真摯に考えていることである。才能以上に、人間としての器の大きさと人格の清潔さを見込まれて、彼はまだ二十代という若さにもかかわらず、改暦という歴史的大事業を任された。
ある部分、鮮烈な青春小説とも読める本書だが、私がとくに感動したのは以下の一文である。保科正之(三代将軍、徳川家光の異母弟。会津藩藩主であるとともに、家光、家綱の補佐役であった)という春海の事業の一番重要な後ろ盾となった人物が、「囲碁打ちという仕事には正直飽きました」という春海に対して言った一言である。
「それでも家督を投げ出さず、出奔せず、家を荒さず、出来る限り稼業に励んだのはまことに天晴れな心がけだ」
自分に与えられた職務がどれだけ地味で、新鮮味がなく、もう飽きてしまったという「つまらない」仕事であったとしても、それさえまっとうできないものは、大事業など成し遂げられないのだ、ということを保科正之は言っている。反対に、現状に疑問を持ち続け、何か変えたい、変えることをやってみたい、とつねに考えてみるもののところに、歴史を変えるほどの大きな事業に挑むチャンスがめぐってくる。

いま自分がやっている仕事が「つまらない」と不満を持っている人、もしくは「こんなことやっていったい何の役に立つのだろう?」と疑問を持っている人に、ぜひ読んでもらいたい。それを考えて行動を起こすことから、歴史を変える一歩が始まるのだ。
未来に挑戦する気持ちを抱かせてくれる本書は、何度も言うが、人を幸せにする本である。
(text / motoko jitukawa)
『天地明察』
冲方 丁 著
角川書店 ¥1,890(税込)
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